ベンチャー法務の部屋

ニーチェの『ツァラトゥストラ』と勉学(試験勉強)の過程

今回は、およそ学習一般について、私が少し考えていることを記させていただこうと思います(特に司法試験受験生を想定したコメントもあります。)。少し抽象的な話となりますので、ご容赦下さい。また、ベンチャー法務とは直接関係ありませんので、この点もご了解いただければ幸いです。

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)の著作に、『ツァラトゥストラ』(ALSO SPRACH ZARATHUSTRA)という本があります。『ツァラトゥストラはこう言った』『ツァラトゥストラはかく語りき』『ツァラトゥストラはこう語った』等という題で訳されていることもあります。この本からインスピレーションを得て創作されたと言われる、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」(序奏が映画『2001年宇宙の旅』の冒頭の曲に使用されている。)の方が有名かもしれません。

この本は、後期ニーチェの代表的な著作です。「神は死んだ」や「超人」といったニーチェを代表する概念も現れます。私がニーチェについて語るのは力不足である上、本業でもなく、また「読んで理解した」どころか「読んだ」とも言える領域に達していませんので、ここで、ニーチェ哲学の内容に深入りするのは、止めておきます。(私がニーチェに傾倒しているわけでもありません。念のため。)

この本の中に、次のような一節があります。

ツァラトゥストラの言説
三様の変化

(同志への教説がはじまる。重荷に堪える義務精神から自律へ、さらには無垢な一切肯定の中での創造へ。これが超人誕生の経路である。)

わたしは君たちに精神の三様について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝(らくだ)となり、駱駝が獅子(しし)となり、獅子が小児となるかについて述べよう。
畏敬を宿している、強力で、重荷に堪える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。
(中略)
すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へ急ぐ駱駝のように、おのれの身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。
しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神は獅子となる。精神は自由をわがものとしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。
(中略)
わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。
新しい価値を創造すること―それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすること―これは獅子の力でなければできないのだ。
自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」ということ、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ。
新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得すること―これは重荷に堪える敬虔な精神にとっては、身の毛もよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行うことである。
(中略)
しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。
小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。
(中公文庫版『ツァラトゥストラ』(ニーチェ著、手塚富雄訳)36頁以下より引用)

詳しくは原文を参照してください。非常に読みにくい文体ですが、上記の内容を極めてざっくりとまとめると次のようになります。

駱駝:重荷に堪える

獅子:自由な状態を獲得し自律する

小児(赤子):新しい価値を創造する

ニーチェの本旨についての議論はさておき、このプロセスは、いろいろな場面に応用できるように思います。

まず、重荷に堪える段階(駱駝の段階)では、コツコツ努力すること、既存の概念や価値観を学習するところからスタートします。法律の勉強であれば、条文、判例、基本書を通じて、基礎的な概念、既存の考え方を習得することが重要です。このときに、自分独自の説や考え方を提唱することは適切ではありません。司法試験について言えば、司法試験のうち択一試験が問うているレベルです。この頃に、基礎学習をおろそかにし、自分の独自の考えに固執することは避けた方がよいです。虚心坦懐に先人の考え方を学ぶことに力点を置いて下さい。

その段階が終わると、漸く自分の言葉で議論できるようになります。獅子の段階です。基礎的な概念、既存の考え方を十分に習得し、理解できていると、自然と自分の言葉で、自由に議論できるようになります。司法試験であっても、このレベルに達していれば、論文試験でもだいたい合格できると思います。論点ごとの暗記に頼ることなく、体得した知識と論理体系によって、様々な問題に対処できるようになっているはずです。対処できない問題があれば、その問題を解決するために必要な素養において重荷に堪えていないということですから、その分野では、まだ「私は駱駝の段階である」と考えて、地道な勉強を継続しましょう。

最後は、小児(赤子)の時代です。この段階に完全に到達することは、超人レベルになることを意味します。長年、様々な議論をする先に見える自然体の状態であろうと思いますが、容易に到達できるものではありません。試験勉強で、このレベルを目指す必要はありません。

日本にも伝統的に、「守・破・離」という概念があります。能を確立した世阿弥の教えに端を発し、川上不白という18世紀の日本の茶人により言葉にされたようです。この「守・破・離」という概念も、このニーチェの「駱駝・獅子・小児」の話に近いかもしれません。空手等の武道やお茶・お華等の芸道でも、同じように考えることもできるように思います。

司法試験等の資格試験の受験生は勿論のこと、経営者、芸能人、職人、専門職等、いろいろな領域で参考になるのではないかと思っております。時には、自分の現状を遠くから観察して、どの段階にいるのかを見据えながら、今、為すべきことを見直すことも、よいのではないでしょうか。

執筆者
S&W国際法律事務所

お問い合わせ
メールでお問い合わせ
お電話でお問い合わせ
TEL.06-6136-7526(代表)
電話/平日 9時~17時30分
(土曜・日曜・祝日、年末年始を除く)
page top