「確信」と「疑い」

先日、ある会合である寺院の住職の方が、昨年公開された映画『教皇選挙』を引き合いに、「確認」と「疑い」ということについて、お話をされていました。
映画『教皇選挙』は、ローマ教皇を選挙で選ぶconclave(コンクラーヴェ)が実施された時期と重なり、話題となりました。実際のものとは異なる部分も少なくないそうですが、人間である枢機卿(すうききょう)達がいかにして教皇を選ぶのか、ということを描いた大変興味深い作品でした。
映画『教皇選挙』の中で、選挙の開始にあたって責任者の首席枢機卿(すうききょう)が、次のような言葉を述べました。
長年にわたって教会に仕えてきた中で、私が何よりも恐れるようになった罪が一つあります。それは「確信」です。「確信」は、結束の最大の敵です。「確信」は寛容を殺す敵です。
私たちの信仰が生きているのは、それが「疑い」とともに歩んでいるからです。もし、「確信」しかなく「疑い」が一切なければ、そこには「わからなさ」も「越えられないもの」も存在しません。そして、「全てがわかっている世界」においては、信仰など必要ないのです。
上述の住職の方も、人間が迷い、疑うのはむしろ当然のことであり、むしろ確信をもって、疑いを排除する方が危険であるといったことを述べておられました。
映画『教皇選挙』では、多様な価値観を容認するか否か、伝統的な価値観への回帰を目指すべきか、といった現代的なテーマを中心に、個人の思惑も絡んで、非常に面白く展開していきますが、それらの主張に「確信」を持ち、自信をもって説得することが本当に良い姿(信仰としてのあるべき姿)なのか、という点もまたテーマの1つであるように思われます。
日常の生活で、友達が話していることにいちいち疑いの目を向けて、「それって本当なの?」と言うと、会話が成り立たず、友達を無くすことになりかねません。話し相手が恋人や配偶者であれば、「私の話が信じられないの?」と関係が悪化してしまうことになりかねません。
人を疑うことよりも信じることの方が重視されることは決して少なくありません。
一方で、「疑い」こそが人間社会を進化させてきたことは間違いないと思います。
哲学者のデカルトは、” cogito ergo sum”と述べ、これは日本語では「われ思う。故に、我あり」と訳されています。これは、全ての存在を疑って疑って疑った結果、それでも残ったものは疑っている自分自身(自我)であり、疑っている自分自身(自我)は疑いようがないということを原点とする考え方です。西洋合理主義の礎になった考え方であるとも言われています。
ニーチェも「神は死んだ」という言葉で、宗教的な価値観のみならず、それまで絶対的な価値として存在していたものの意味を疑うことで、西洋の思想史においても極めて重要な影響をもたらしました。
さて、スタートアップの世界では、disrupt(混乱させる、破壊する), disruptive(破壊的な)という言葉が使われます。これは、既存の仕組みや当たり前と思われている構造等に対して、破壊的なイノベーションによって劇的な変化をもたらすことを意味します。
例えば、タクシーは特別な免許を有するタクシー運転手が行うのが当然と考えられていた社会に、タクシーのための免許の必要性に疑いを持ち、一般人が運転する車に乗り合って、乗客が日常的にその運転手を評価をする仕組みにより安全性を担保するといったサービスを提供するUberは、既存のタクシー業界に劇的な変化をもたらした典型的な事例といえるでしょう。
日常生活では「確信」への誘惑に駆られることが多いですが、時折、自分が何か正しいと信じていたことへ疑いの目を向けてみることは、人生の岐路に立つときにより良い選択をするためにも、他者へ寛容であるためにも、必要なのかもしれません。