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憩いの部屋

オリンピック開幕式の騒動を考える

連日暑いですね。
オリンピックの熱戦と日本勢の活躍が連日伝えられており、ミーハーな私は、それなりに楽しんでいます。
とはいえ、開催にあたっては、コロナ禍との関係で開催の是非や観客を入れるかどうかで賛否両論があり、いまも議論は絶えません。また、思い返せば、コロナ禍以前では灼熱の東京で本当に開催するのか等の議論がありました。

そして、開会式を巡っては、作曲担当だった小山田圭吾氏が過去に同級生をいじめていたことが問題視され、7月19日に辞任し、演出を統括するショーディレクターだった小林賢太郎氏も過去にホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を揶揄するようなコントを演じていたとして、7月22日に解任されています。

オリンピックの開会式には、他にも、企画そのものや演説の長さなど、他にも話題というか、批判が少なからずあるのですが、今回は、これらの騒動うち、小山田圭吾氏の件と小林賢太郎氏の件に絞って触れたいと思います。

まず、始めにお断りしますが、全て筆者個人の責任で私見を記述したものであり、筆者の属する組織は何らの関係もないことをお断りします。また、この両氏を援護する意図は全くなく、辞任や解任について異を唱えるものでもありません。選任した側が問われていることも十分理解したうえで、法的観点や人権の視点から考察を試みたに過ぎないことをご了解ください。

さて、小山田圭吾氏の件は、過去の雑誌の内容が事実であれば、「いじめ」というには度が過ぎるという社会的評価を下されるべき事実であることは間違いありません。私も、過去に雑誌に掲載された内容を読んで、気分が悪くなりました。ただ、一方で、「いじめというより犯罪」といった言説でもって非難することがまかり通ることは、かなり気になります。

というのも、刑事訴訟の原則では、判決で有罪が確定するまでは無罪が推定され、また、自白のみが唯一の不利益証拠である場合は有罪とされないというものがあり、過去の事実の自白でもって、安易に犯罪者であると断定するような言説に違和感があります。また、そもそも本当に「犯罪」と言い切ってよいのかという点も、十分な検証がなされていないように思います。特に、14歳未満の行為であれば、刑法上責任能力がなく、有責性を欠いて、犯罪としては成立しません。「犯罪行為」とまで言い切れるだけの根拠が十分にあるのかは、正直なところ、よくわかりません。

また、小林賢太郎氏の件は、さらに悩ましい点があったように思います。

もともと、おそらく日本国内で、かなり限定された観客(おそらく全て日本人)向けに、ホロコーストによる被害を受けた人やその親族などがその場にいない前提でのコント内での発言であったと思われます。しかも、『放送できるか!』というツッコミを前提とした発言(いわゆる「ボケ」)でありました。

当初、私個人の考えとして、ご本人は当時自分の「ボケ」で被害意識を受ける人はいないという判断で採用したものと考えられ、そのコント内の発言が20年以上の時を経て取り上げられて、辞任という処分になるのは、やや酷ではないか、と考えていました。

しかしながら、世界には、日本のように、政治的言論を言論の自由のなかでも最大限配慮されるべき自由であるとして、言論内容そのものへ制約はかなり謙抑的に運用されている国しかないわけではありません。例えば、ドイツのように、ナチスの暴力的支配・恣意的支配の是認・賛美・正当化といった言説をしたりする自由自体が認められていない国があります。

いくら過去のコントの中の「ボケ」であっても、ひどく傷つく人が現在の存在し、その言説そのものが、世界の一部で忌避され、違法の評価がなされているのであれば、オリンピックという舞台にふさわしくなかった人選だったという判断は間違っていないでしょう。

芸の道にある人は、自らの表現へ庇護を与えてくれる憲法の人権規範は、国内のみのものであり、世界では通用しない場面もあるということを(そのことがよいかわるいかは別として)意識せざるを得ない時代になったことは間違いありません。

なかなか人権についていろいろなことを考えさせられる騒動でした。

(文責 森 理俊)

2021年07月30日 23:28|カテゴリー:

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